現当主で5代目となる浦野醤油醸造元。貴重な古文書を紐解くと、万延元年八月(1860年)に「まるは」の屋号の元になった濱屋文平の残した文章があります。
願い奉る口上の覚
一 室屋御免札壱枚 文平
但し、年三十六、中男角面
右は、私父清右衛門と申す者室屋商売仕り居り候、死去仕り候に付、去る辰年御免札上納仕り、其の後私義病身に御座候て商売も仕らず候所、追々快気仕り候間、室屋商売仕り度、御免札願い申し上げ候、此の段宜しく仰せ上げられ下さるべく候、以上
申八月
願主八屋浦 文平
つまり、文平の父・清右衛門が”室屋商売”( 当時は味噌や醤油、酒屋など麹室【こうじむろ】を持って醸造していた所を「室屋」と言う事が多かった )をしていたが死去し、文平自身も病に伏せていたため一時休業したが、健康を取り戻したので再び商売をする許可を求める、という文章です。
文平の父・清右衛門がすでに醤油屋及び肥料商をしていた事はわかっていますが、それ以前の事はわかっていません。それで弊社では、古文書に残っている濱屋文平をもって初代と定めております。
ちちなみにこの頃はまだ平民は苗字を持たず“濱屋の文平”として通っていましたが、その後平民にも苗字でき、2代目からは浦野の姓を名乗っており、屋号は“濱屋”からとった「まるは」となっています。いまでも当店の醤油のラベルには「まるは」の屋号が入っており、昔を知るお客様からは「まるは醤油」の愛称で呼ばれております。
さて、浦野醤油醸造元が位置するのは、かつて八屋宿と呼ばれ、長崎、大阪、江戸全ての方向に向う欠かせない重要な道であった「中津街道」そして「求菩提道」「小倉道」が交わる四辻のすぐそばです。当時は大変な賑わいで、魚屋、履物屋、呉服店、旅館などがひしめいていたといいます。
しかし時はたち、町の様子も変わりかつて小さな商店がひしめいていたこの下町もだんだんと姿を変えて行きました。スーパーができ、大規模な工場で作られた醤油が並ぶようになると、小さな醤油蔵にとっては厳しい時代となってきたのです。
5代目の現当主・浦野惇美は若い頃、4代目である父親が大変に苦労しているのを目の当たりにしており、当初家業を継ぐつもりではなかったと言います。「醤油屋はきつい事ばかりだ。いっそサラリーマンになろう。」そう思い、一度は会社員になりました。
しかし、いざ100年以上続いた家業を自分の代で終わらせるとなると、複雑な思いが込み上げてくる。その思いがつのり、28歳で会社を辞め、5代目として跡を継ぐことにしました。それからは、醤油だけでなく麺つゆやドレッシング、だし入りの醤油やポン酢の開発と、精力的に現代のニーズに合った商品を作り始めたのです。
そして、いま。6代目夫婦でそのスピリットを受け継ぎ、今までになかったカラフルで素材にこだわった「にじいろ甘酒」の開発など、伝統を受け継ぎながらも新たな時代を切りひらこうとしています。
また新たな100年、”おいしい”の笑顔と健やかな毎日に貢献できますように。これからも進化し続ける、浦野醤油醸造元でありたいと思います。